二代目 大柿竹細工が生まれるまで

すこし長いストーリーになりますが気になる方はご覧ください

なぜ竹細工職人に?

Ep1. 老人との出会い

 私は海上自衛隊として長く勤めていました。

 平成3年2月 当時私が40歳代の頃、函館に潜水艦で上陸しました。

その際に五稜郭というところに見学に行きました。雪がちらつく風景の中で窓越しに木彫りの熊を彫っている老人の姿を見ました。その老人の姿が実に印象的でした。その方は歳が60~70くらいで作務衣を着て一生懸命に

木を彫っていました。その熊の表情がとても豊かでまるで生きているようでした。この人は只者ではないなと思ってじーっとみていたら「こっちに入っておいで」と声をかけてもらいました。「兄ちゃんたちは定年後はなにするの?」ぽつんと質問されました。「もう自衛隊で働くだけ働いたから、定年後は悠々自適でなにもせずに過ごします。」と答えると「それは違う。」と言われました。「え、違うんですか、ゆっくりしたいじゃないですか。」と答えたら「いいや、それは違う」と。「本当に死ぬときにいい人生だった~と思えるのは、定年後が一番大事なんだ。それはどういう生き方かと言ったら、自分の本当に好きな事を心ゆくまで楽しんで送って、死ぬときにいい人生だったな。と思えるのが一番いい人生なんだ。」というのを教えてくれました。

それから自分の考え方が「がらっと」変わりました。その人生の先輩の話がずーっと心に残っていました。

 

Ep2. 父の死

 じゃあ定年後に自分は何をするかな、というのをおぼろげながらにいろいろ考えていて、帰ってきたら家の米の手伝いとか、父は自宅で竹細工をやっていたけれど自分はするつもりがありませんでした。ラフティングのガイドなどいろいろな仕事をしながら過ごしているうちに、平成28年8月父が亡くなりました。父は昭和24年に葦北から人吉へ養子に来て、とても竹細工が好きで60年以上やっていました。

 

Ep3. 竹細工革命

 竹細工をするつもりはなかったけれど、自宅にはたくさんの道具がそのまま残っていました。「あれ、これはもったいないな。」と思い、それがきっかけで竹細工を初めてみました。

 やりだしたら「もう、なんじゃこりゃーみたいな感じで、先生はこの人に聞きに行ったらいいとか、竹はここに切りに行けばいいとか父が全部あっちから教えてくれるわけなんです。それがすべていいように道が出来ているというか、だからもう父が願っていることなんだな~と思いました。」
 やり始めたらとんとん拍子で進みはまってしまいました。

Ep4. 職人への道 

 父が亡くなった翌年から竹細工を始めて、2年で自身の竹細工教室を起ち上げました。父のやっていた竹細工教室の生徒だった方たち25名がすぐに生徒に入ってくれて、今がすごく楽しいです。

 普通竹を削るだけで2~3年かかるものですが、私は小さいころから帰るたびに父のやっている姿を見ていたので竹の削り方や包丁の使い方、なにをしなくても目の中の記憶に残っていました。このような作品も作れるようになるまで何年もかかるはずですが、作品は1、2年目に金賞、今年は銀賞を戴きました。

 竹細工はとっても奥が深いんです。

 

Ep5. 人生これから!

 令和2年7月 豪雨水害に見舞われ自宅は天井まで浸水しました。

人生なにが起こるがわからないので、そういった変化に対応できる

なんか、そういう人生がいいかなあ・・

と思っています。

 

 

 

  気に入っている言葉:渋沢栄一の座右の銘

人間貴晩晴(にんげんばんせいをたっとぶ)

”一日のうちでもっとも大事なものは夕刻で、日中どんなに快晴であっても、夕刻に雨でも降れば、その日一日が雨であったかのごとく感じられるように、人間も晩年が晴々した立派なもので無いとつまらぬ人間になってしまうものだ”

 



アクセス

大柿竹細工

〒868-0085

人吉市中神町大柿370

TEL: 080-1732-6885

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